2015-01-25

Power of 複数案

仕事の合間(つまり、起きている時間の大半)に Twitter を眺めていたら、こんなツイートに辿り着いた。


念のために書いておくと、プロならベストな一案を持っていくべきとか、事前にすりあわせろとか、そういう話をしたいのではない。

自分の役割はなんなのか、相手の役割はなんなのか、という認識を醸成するという話なんだろうなと思った。それによって、前に進ませるのが目的なのだ。

ここで、ちょっと話をずらす。ダン・アリエリーが「予想通りに不合理」で出している例で、雑誌の定期購読の価格設定のエピソードがある。

1. オンライン購読 $59/year
2. 雑誌の定期購読 $125/year
3. オンライン + 雑誌の定期購読 $125/year

2 には、意味がないように見える。けれど、1、2、3 を提示した場合と、 1 と 3 だけを提示した場合では、後者のほうが 3 を選ぶ率が高かったという結果がある。「これは選ばないんじゃないかな」っていうのが入っていると、相対的に欲しいものがより明らかになってくる(あるいは、相対的に魅力的な選択に見えてくる)。

「これだろ」って提案がベストであっても、ちょっと外れた案が見えることによって、本命提案の精度が明らかになり、それゆえ精度を上げていくことができる気がする。



2015-01-10

カズオ・イシグロ「日の名残り」

圧倒的らしい本


quipped の人の「2014年に読んだ本」をながめていたら、カズオ・イシグロの「日の名残り」という本が紹介されていた。

Bezosはこの本を、「たったの10時間、主人公の人生を覗くことで、人生と後悔について教えてくれる本だ」と評していたが(Bezosは後悔最小化フレームワークの提唱者である)、自分の感想は、社畜ライフの最大の悲哀は、社畜であるという自意識の欠乏だということ。今年読んだ小説では、圧倒的に印象に残った。

それほど圧倒的なら、ということで、読んでみた。だが和訳。「わたしを離さないで」(Never Let Me Go) と同じく土屋政雄の翻訳だ。

みんな


家が火事になったらどうする? 家族全員を今に集めて、どの逃げ道が最適か一時間も討論するか? 昔ならそれでよかった、昔ならな。だが、世界はすっかり複雑な場所に変わってしまった。その辺を歩いている人が、誰でも政治学と経済学と世界貿易のことを知っているとは期待できない。

みんなで意見を言い合おうとか、誰の意見にも一理あるとかで、広く意見を集めるというのは、問題解決の手段としては必ずしも適切ではない。とは常々考えている。

基本的な物理現象を理解できない人が、発電所の稼働に反対/賛成だと思うのは勝手だけれど、わたしと意見が同じかどうかに関係なく、直接的な意志決定に関わらないで欲しい。

※ 異なる視点を取り入れること自体に、文句があるのではない。念のため。

後悔


最小化/最大化するという考え方が好きだ。ネガティブなことを完全に無くすのは大変だけれど、最小化するのが現実的なことがある。たとえば、サーバダウンタイムをゼロにするとの、最小化するのは大きな違いがある。

Python 温泉アドベントカレンダーで「プログラマになって、後悔がある」と書いたことに対して、Twitter なんかで反響があった気がする。後悔しないほうがいいけど、わたしはどっちに転んでも後悔はするところまで来ている。子どものころ勉強しなかったとか、高校で合コンにもっと行っとけばよかったとか、取り返しのつかない後悔はいっぱいある。遺憾ではある。なので、今後の人生で、後悔を最小化する方向に倒している。

プログラマになったことにより、いろいろと後悔はある。けれど、プログラマにならなかったら、もっと比べ物にならないくらい、大きな後悔をしただろうと考えている。

A と B を選択があるとき、どちらがより小さな後悔で済むだろう?って考える。ベゾスの後悔とはわたしの後悔は違うかもしれないけれど。

バイアス


この作品の登場人物のひとりが、自己弁護というか、自己肯定というか、とにかく自分がよく思われるように話す。嘘ではないけれど、歪んで伝わってくる。意図しているなら、信頼できない人物である。

問題は、その人物はものすごく大きな感情バイアスが働いてるかも知れない、ということだ。自分が正しいと信じたいがために、歪んで認知しているかも知れない。

後悔を最小化しようとするときには、注意が必要だ。心理的不協和を解決するために、後悔をせずに、これでよかったんだ、肯定してしまうかも知れない。

というわけで


慌てて読んだこともあって、圧倒的な印象は残っていない。読み込めていない感があるので、注意深く再読したい。

2015-01-01

森博嗣「サイタ×サイタ」

ネタバレです。そのつもりで。ミステリーについては言及しません。いつもの小川や真鍋が、素行調査を請け負うのだけれど、その過程で...という話。

「できなくもないっていうのは、できるけれど、それなりに高くつくという意味だ」
「お金ですか?」
「まあ、そう、一般的には……」
「知りたいですけれど、今の仕事とは関係がありませんから、ちょっと無理ですね」

ソフトウェア開発を彷彿とするやりとり。調べる/実装することはできるけれど、時間=お金かかりまっせ。

「つまり、それほど親しくもないけれど、知合いの人物から、恐いから助けてくれ、もう死んだほうがましだ、なんて言われて、放っておいたら自殺しかねない、という状況だったら、ということです」
「うーん、ちょっと待ちなさいって言いますね」
「でも、相手は電話を切ってしまう。どうします? 放っておきますか? 自殺したいなら自殺すれば良いって、そう割り切れますか?」
「うーん」小川は唸った。自分は何を考えているのか、と思った。
「僕は放っておきますよ。」真鍋が横で言った。「死ぬのはその人の自由だと思います。すぐ助けに来て欲しいと言われれば、行くかもしれませんけれど、自殺します、と言われても、たぶん、警察へ電話をするだけですね」

話題が話題だけにセンセーショナルな感じだけれど、究極的には「頼まれもしないことを、するのか?」という話だ。頼まれていないことは、やらないように努めようとしている。頼み方が下手とか、頼みにくい状況というのは考慮するけれど。

先回りして「こういうことを、したほうがいいかも」と思うことがあって、ついやりたくなってしまう。やらないように努めているけれど、ついやってしまう。

気をつけないと「俺がやってやったのに」みたいに思ってしまって、DVとかストーカーとか、そういう方向に行きそうで、恐ろしい。

プレゼントを渡されるのが嫌だ、とよく言っているのは、自分にDVやストーカーのメンタリティがありそうだからだ。頼まれた場合をのぞいて、プレゼントは「喜んでもらいたい」という渡す側の動機でなされる。したがって、喜ぶかどうかの責任は、渡す側に 100% ある。けれど、受け取ったプレゼントを気に入らなかった場合にぞんざいに扱うと、受け取った側に責任が押し付けられる印象がある(せっかくもらったんだから喜べ、的な)。渡す側に動機と責任があっただろう、と。

頼まれもしないことをすると、いろいろややこしいなぁという話でした。