2010-01-02

「一九八四年」と「五分後の世界」の略語に関する対称性


ジョージ・オーウェルの「一九八四年」と言えば、村上春樹の「1Q84」ですが、それはおいといて(おいとくのかよ)、村上龍の「五分後の世界」です。



「一九八四年」も「五分後の世界」も全体主義となった自国のパラレルワールドが描かれているのですが、こまごまとした設定が対照的です。



一九八四年のオセアニアでは、元の意味が分からなくなるような略語が使われます。たとえば、English Communism の代わりに Engsoc、Ministry of Love の代わりに Miniluv など。



一方、五分後の世界の日本では、正確な意味を忘れないようにという動機から、略語は奨励されません。たとえば、CNN と言った生徒が、Cable News Network と言い直させられるシーンがあります。



前者の政府は国民が無知であることを強く望んでいて、後者の政府は国民が無知であることを危機であると考えています。その根本的な違いの表れとして、略語の扱いが全く逆であるな、と思いました。